不適格教員からの生還(現場に生還した教員の手記)

  • 2007/09/13(木) 15:01:28

不適格教員からの生還(現場に生還した教員の手記)

 「不適格教員」と名付けられる「教員」がいる。たしかに教師という職業を選んだことが間違っていたのではないか、と思いたくなるような教員もいる。そんな保護者の声があることは否定できない。そのような声を背景に、権力にとって都合のよくない教員、校長の言うことを聞かない教員などを標的に「不適格」というレッテルを貼って、職場から追い出し、やがてはやめさせてしまう、という制度が「教育改革」の名のもとに全国で進行中である。
 かつて「西の愛知、東の千葉」といわれたほど「管理教育」の先進地、文部省の直轄地ともいわれる千葉県でも、その制度はしっかりある。
 ここで紹介するのは、その千葉県で「不適格教員」とされたОさんが、小さい教員組合の支援によって、退職に追いやられることをまぬがれ、職場に復帰することができたのである。
 ここに紹介するのは、その「不適格教員」О・Kさんによる手記全文である。この手記は、郷土全協の月刊機関誌「郷土教育」第574号(07年5月号)から第577号(07年8月号)までに、誌面の都合から抜粋で掲載したものである。(固有名は、原則としてアルファベットか仮名にした。)
 なお、「小見出し」は、このHPの編集部の責任でつけた。
 また、蛇足だが、この文章の著作権は、О・Kさんと郷土教育全国協議会にあります。無断転載を禁じます。お問い合わせは、左下の「リンク」の郷土教育全国協議会のHPの「メール」からお願いします。

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   はじめに
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     「郷土教育全国協議会」東葛支部長     K・K


 今、教育がねらわれている。普遍的でなければならぬのに、ときの政府・安倍政権によって教育再生不可能なほど速いスピードでねらわれている。「公教育の再生は待ったなしだ。美しい国造りの基本は教育。教育の再生に全力で取り組む決意だ」そういえばヒットラーも教育をターゲットにしていた。この二人はよく似ている。ファシストは教育でマインドコントロールしたがるのか。教育基本法改悪がまかり通り、教育関連三法案も権力の思い通りにしようとしている。と同時に、この教育の中に競争原理を導入しようとしている。教員間にもそれを導入し、「教員の資質向上」などと言いながら、優秀教員を表彰したり、人事考課で高評価の教員に昇級で優遇したり・・・・。逆に、権力に都合の悪い教員には、「不適格教員」のレッテルを貼る。
 我々、千葉学校合同の仲間 О・Kさんは、本人も「なぜ、自分が不適格教員なのか未だによく分からない・・・・」この制度に引っかかり、2005年4月から勤務校を追い出され、千葉県総合教育センター(研修所)で1年間の「特別研修」を受けさせられることになった。
 О・Kさんは、10年ほど他市の学校で勤務の後、2004年4月、八街(やちまた)市立H小学校に着任した。3年生の担任になったが、「仮説実験授業」など教科書にない学習を積極的に導入するなど、研究熱心で意欲的な学級経営をしていた。ところが、封建的なY市である。「仮説実験授業」をする先生、学校体制よりも子どもを大事にしようとして管理職とぶつかってしまう先生、そんなО・KさんをH校長は問題視するようになった。管理職は、八街市教委を抱き込み、保守的なPTA幹部にも働きかけ、О・Kさんのあら探しを行い、いちゃもんをつけ、授業・学級経営への干渉を執拗に続けた。強いて上げるならば、このようなことが原因かもしれない。
 だが、まさに不的確な「不適格教員」だったが故に、また千葉学校合同労働組合が命を張って戦ったからこそ勝てたのである。
 以下は、研修所からスタートするО・Kさん自身によるレポートである。



◆◆ 05年4月 ◆◆

 ○ 研修所では「現場に復帰させないぞ」という脅し言葉が ○

 研修所では「美術研修室」という、ほとんど何もない部屋に行かされた。ここでは、他に2名の人がいた。千葉M学校の関さん(30代後半)と、船橋F高校のKさん(50代半ば)だった。
 ただし、私は2人にはあまり関心がなかった。彼らと話しても自分自身が惨めになるような気がして、なかなか話す気にはなれなかった。それでもKさんとは1度だけ昼食に付き合ったが、その態度に幻滅した。その後は全くといってよいほど、交流を持たなかった。
 この時期は、毎日、自分自身が、なぜ「不適格教員」になったのか、そのことばかりを考えて落ち込んでいた。
 ほぼ毎日、別室にて退職校長である「嘱託」の佐伯氏(仮名)から「面接指導」というものを受けた。そこでは毎回、朝日新聞の社説を読まされた。しかし、私が「不適格教員」にされたことについては、意見や反論を述べることは許されなかった。なぜなら、そうすると、「現場復帰させないぞ。」と脅しが入るからだった。
 他にも研修所の主任指導主事の鈴本氏(仮名)が「君たちは『指導方法の改善』が必要だ。」などという意味不明なことを言い、「まじめにやらないと現場に帰れないぞ。」と再三にわたって、脅しをかけてきた。何をまじめにやれというのか、それすらも示されない毎日だった。
 研修所送りにされた当初から、うすうす感じていたのだが、要は、私の場合は「体制に従わなかった」から、「不適格教員」にされたのだと思った。そう思ったところでどうにもならなかったが、それでもそう思わなくては身が持たなかった。
 研修所にいること以外、ほとんど交流のなかった同室の2人にも、何度か、私の話を聞いてもらった。その結果かどうか、私の主張について、一定の理解を示してもらえた。
 研修所では他には、初任者研修用資料にある各項目に合わせて「レポート」を書くように指示された。まとめ方は「これまでしてきたこと」「これからどうするか」ということだった。
 いろいろ落ち込んでいても始まらないと思い、取り組むようにした。このレポート作成については、自分の意見や考えを極力出さないように努めた。それは、この研修の大きな目的が

「体制に従わない人間の粛清、又は修正」

であると考えたからだ。いたずらに反論したり、弁解したりすることは避け、極力、相手を刺激しないような記述をすることに努めた。
 実際に、研修制度の文面をよく読んでみると「児童・生徒を(体制に従うよう)適切に指導をすることができない。」という言葉をつけると、全てつじつまが合うと思う。
 このときのレポート作成を通して、その後、敵なのか味方なのかわからない人に話したり、公的に保存されるであろう文書を書いたりする際は、「隙を見せないよう、無難に。」という方法を、今までより注意深く身に付けることができるようになったと思う。

 おかしな話だが、レポート作成の成果なのか、後に県教育委員会(以下「当局」)の担当者や、研修先の校長から「О・Kには文章力がある。」という評価を得たことがあった。私としては苦笑するしかない評価だ。ただし、私自身が「転んでもただでは起きない。」というしたたかさを少しは持っていることを知って、少しだけ感心した。
 今でも振り返ると、やはり当時は、精神的にはかなり不安定だったと思う。05年4月といえば、埼玉県で新採教員の自殺事件や、尼崎の列車脱線事故があった。それらの報道に触れた際、何とも言いようのない感覚だった。「かわいそう。」というよりは、まだまだ自分なんかは命があるだけましである、と思った。「これが『他人の不幸は蜜の味』ということなんだな。」
 被害者の方々へは申し訳なく、不謹慎な話だが、当時は本当にそうとしか思えなかった。


◆◆ 05年5月 ◆◆

 ○ 「不適格教員」になって得たのはたたかう「千葉学校合同」との出会い ○

 絶対に外すことができない出来事として、「千葉学校労働者合同組合」(以下:「千葉学校合同」http://www.mdn.ne.jp/~ggk/)との出会いがある。
 全くのまじめな話として、私にとって、この「不適格教員」という制度にて得た、もっとも大きな成果は、「千葉学校合同に加入することができたこと」と断言できる。
 4月に研修所送りにされた際に、前々から通っていたいくつかの教育サークルでは、私の処遇について話してきた。
 話したところでほとんど、どうにもならないのはわかっていた。しかし「05年度は○年生の担任をしている。」などの話に付き合うのは、本当に辛かった。自分の話題が場を盛り下げるのはよくわかってはいたが、「不適格教員」にされた意味を、多くの人は単なる「謹慎処分」と受け止めていたようだった。
 その中で、埼玉の独立系組合「Aユニオン」の新井さん(仮名)は、
「そんな話はおかしい。何かできたらと思う。よかったらメーデーに来てほしい。独立系組合だけど話をきいてもらいなよ。何か闘い方とかあるはずだから。」と話してもらった。そこで、東京・日比谷でのメーデーに参加した。(05年5月1日)
 05年のメーデーは、ちょうど日曜日だった。ワラにもすがる思いで、ともかく参加してみた。後にわかったことで、もし05年5月1日が平日だったら、新井さんからは、メーデーの紹介もなかっただろうということだ。新井さんも公立小学校教員なのだが、「年休をとって、組合活動を行うことはほとんどない。」とAユニオンの方から聞いた。
 今考えるとゾッとするのだが、このメーデーに参加していなかったら、多分、私は仕事を失うだけではなく、今頃は精神的にも破綻していただろう。
 メーデーでは新井さんと同じAユニオンの佐藤さん(学校事務職、仮名)をはじめ、みなさんに話を聞いてもらった。といっても、私自身、恥ずかしさと情けなさから、私からはなかなか話を切り出すことができなかった。他県の千葉の人間である私に、いくらこの方たちが親身になっても、どうにもならないというあきらめからだった。

 ○ 千教組の姿勢には疑問が ○

 私は、当時は、まだ日本教職員組合(日教組)系の千葉県教職員組合(千教組)に加入していた。研修所送りになる前に、相談にいき、私を研修所送りにした平川校長(H小元校長、仮名)作成のでっちあげの文書を指摘したが、組合幹部の村井氏(仮名)には全く取り合ってもらえなかった。それどころか「平川校長を怒らせたあなたが悪い。」をはじめ、厳しい口調で罵倒もされた。そのときの体験もあって、今でも日教組に対しては、ある種の感情をもっている。
 復帰した現場で千教組の職場会が行われていると、複雑な気持ちにさせられる。千葉学校合同としては「千教組の良識派とは交流を持つ。」という方針があるが、私自身が「千教組」の人間とそうできるようになるには、もう少し時間がかかりそうだ。
 当時の私は研修所送りにされた後も、05年5月末までは千教組には加入したままだった。しかし、その頃は「組合」というものを全く信用しなくなっていた。
メーデーで千葉学校合同執行委員長のY・Aさん、副委員長のH・Tさんと会ったときも、最初は詳しく話をする気にはなれなかった。
「どうせ、この人たちも当局の肩を持つのだろう・・・。」
そんなことを考えていた。でも、Y・Aさんの「もう少し早く、このような事態を知ることができたら、何とかできたのだが・・・。」という言葉に、かすかな期待を感じた。
 メーデーでは、簡単に私の状況を話して、後日、再度話を聞いてもらう約束をした。

 ○ 千葉学校合同は本気でたたかってくれる ○

 中旬になって、今度はY・Aさんと千葉学校合同組合員のО・Sさんと会った。その際、05年3月に私が校長作成のでっちあげの文書に反論する形で当局に提出した「意見書」を渡して事情を話した。
 私の話を親身に聞いてくれるY・AさんやО・Sさんの様子から、「この人たちは、オレを陥れようとしているわけではない。本当に問題意識を持っているのだ。」と感じた。
 さらに、下旬に行われた千葉学校合同の年次総会では、たくさんの組合員の方々、それと横浜学校労働者組合のA・Kさんにも会い、話を聞いてもらった。その際、
「小川さんの気持ちによるけど、小川さんに闘う気があるのなら、最後まで共に闘っていくぞ。」とみなさんに言ってもらえた。「この人たち(千葉学校合同)は本物なのだ。」と確信した。私は千葉学校合同への加入を決意した。
 今までの私自身の組合活動の取り組み方を反省し、ともかく現場に戻って、千葉学校合同と共に闘っていきたいと思った。

《閑 話 休 題》*****************************
 この頃から、趣味を充実させて生活していこうと心がけるようになった。私は独身であったことも幸いしてか、帰宅後や休日は自分の時間を多く持つことができた。
 もともとスポーツが好きだったので、これを機にフットサル(5人制のサッカーのようなもの)やサイクリングを本格的に行うようになった。
 学校現場に立てないのは辛かったが、「立たせてもらえない。」という事実を受け止めることにした。でも、その事実だけに振り回されないように生きていこうと心がけた。この2つのスポーツでは、様々な方と出会った。知り合った方々に対して、私は「会社員」で通した。実際に教師としての仕事をしていない状態だったので、それでいいと思った。前から、私は教師という仕事をしていて、異業種の方と会話をすると、常に「教育」について語らなければならないことが多く、そのことに違和感を持っていた。ましてや私は「不適格教員」になってしまったので、ますます教育のことを話すのがいやになっていた。
 実際に「会社員」としてふるまうと、いろいろな職種の人たちとフランクに話すことができた。教育のことを、全く話すことがなくなった。中には、気になる人もいて、何度か私の職業について聞かれることがあった。大方の人は、私が「しがない会社員ですよ。」と答えると、「営業ですか?」と聞いてきた。そんな受け答えに内心苦笑した。
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 私はどう見ても、人なつっこい性格ではない。先輩や上司に可愛がられたという体験は一般的に見て多くない。いや、ほとんどないと考えている。ほめられた経験より、けなされた経験の方がたくさんあった。正直なところ、平川校長(H小元校長、仮名)作成のでっちあげの文書そのものは、「この程度のけなし方では、自分は精神的には破綻しない。」という稚拙な内容だった。ただ、そんな稚拙な内容を通してしまった当局に対しては、驚きと落胆でいっぱいになった。当局や校長、教頭といった管理職に対しては、今でも「怒り」と「復讐心」という名のアレルギーを持ち続けている。多分、私はこれからもけなされる体験が増えても、ほめられる経験はあまり増えないと思う。
 だから、私は生涯にわたって、「ほめる」のも「ほめられる」のも苦手であり続けると思う。今では、そんな私のような人間が生き続けるのも、それなりに価値があると私は勝手に思っている。
 後に、千葉学校合同や、現場研修などで行く船橋市・K小、八街市・K小では、かなりの頻度でほめてもらう体験をすることになる。しかし、いずれの場合も、なかなか素直には「ほめられる」ということを受け入れられなかった。
 そんな自分だったので、営業職などとうてい向いていないと思っていた。研修所と家の往復を淡々としていた4月は、ほとんど教室で話すような声量で話すことはなかった。当然と言えばそうだ。でも、5月に入ってフットサルを始めたとき、大声を出そうとしてもなかなか声が出なかった。
 「このまま研修所にいさせられたら、本当に教師としてしゃべることができなくなる。」という危機感から、週1回のフットサルの際は、ともかく大声を出すようにした。一緒にフットサルをする人たちは、私よりも若くて元気で、ボールの扱いも上手だったので、当然ほめる言葉しか出ないのだが、それでも、ともかく大声でほめることを心がけた。
 今でもフットサル場で、当時からの付き合いのあるスタッフの人からは「О・Kさんは、いろんな人によく声をかけてほめるよね。」と言ってもらえる。でも、私としては、「意図的に大声を出し続ける。」のが目的で「ほめた」のである。もちろん、いいプレーを見る機会が多かったので、サッカーというスポーツそのものがもっと好きになるという、結果にもつながった。
 

◆◆ 05年6月 ◆◆

 ◯ 千葉学校合同に正式加入 ◯

 5月末で千教組に退会届(正式には「脱退願」だったが、当時はその文面すらわからなかった。)を出して、千葉学校合同に正式に加入した。といっても、すぐに公然組合員として行動したわけではない。結局千葉学校合同としては「不適格教員」の行き着く先が読めなかったので、当面は表だった活動は控えることにした。月2回の「執行委員会」や「全員会」に出席して、私の愚痴を聞いてもらう程度にしてもらうにとどめた。結果として公然組合員として活動を始めるのは06年1月からである。
 また、この時期に私が千葉学校合同に加入したことや、公然組合員として共に行動することを当局に知られるのは、得策ではないと考えたからである。
 千葉学校合同のみなさんの話では、同組合が当局に対して様々な交渉要求を出し、実際に交渉を行い、成果も上げていることからも、当局とは常に緊張関係を持っているとのことだった。
 研修所では、一時的ではあったが、佐伯氏(仮名)と人間関係を構築することができた。相変わらず、レポート作成や社説読みが続いていたが、私は早いペースでどんどんレポートを仕上げていった。さらに、読書にも一層取り組むようになった。ふだん、教師の仕事をしていると読書をする気力もなくすほどへとへとに疲れて帰宅する。不本意とはいえ、「不適格教員」として、研修所にいる間を無為に過ごしてはいけないと考えた。現場に戻ることができるかどうかの不安はあったが、ともかく、本を読めるだけ読んでみようと心がけた。(05年度は、最終的に150冊以上、読むことができた。)
 月末になって、佐伯氏から「船橋市・K小の特殊学級で、10日間の現場実習に行くように。」との話があった。素直に嬉しかった。現場に戻りたいと気持ちを新たにした。


◆◆ 05年7月 ◆◆

 ◯ 夏休みはまともに休める? ◯

 「学校」に就職してから、自分で望んでいないのに「学校にいることができない」という現実に気が滅入ることが多かった。
 9月からの現場実習は決まったものの、自暴自棄になることもあったし、思い切りふさぎこむこともあった。
 おかしな話だが、救いだったことの1つは、毎月起こるともいえる県内教職員の不祥事だった。様々な処分が発表されるたびに、「まだ、オレは自分の首がつながっているのだな。」と妙に安堵をした。
 それでも冷静に考えると、自分が「処分以上、適格未満(不適格)」というおかしな立場にいることに苦笑していた。
 下旬から、夏休みに入った。といっても、私を含めて他の不適格教員には学校の夏休みは関係ない。あえていえば公務員として6日間の夏季休暇(特別休暇)を取得できるということだけだった。これが正直いってありがたかった。
 これまでの私は変にまじめなところがあって、夏休みをまともに過ごした経験がなかった。どうしようもない事態を除いて、学校を3日以上空けたことがなかった。夏休みは、「年休」「夏季休暇」の日でも、何はなくとも学校に行って何かすることを見つけて過ごすのが、毎年の恒例だった。
 だから、おかしな表現だが、「今年の夏休みはまともに休めるのか。」と思うと、それがせめてもの救いだった。でも、やはり「学校の夏休み」というのは当時の私にとっては苦痛だった。というのも、佐伯氏(仮名)から、研修所が主催する数々の一般教員向けの研修講座に出るよう、強要されたからだ。

 ◯ 髪の毛が抜けてしまった ◯

 案の定、講座では、一般参加者とは差別される形での参加になった。そのこと自体はまだよかったと思う。しかし、知り合いの一般参加者と会うのだけは避けたかった。惨めな気持ちそのものは変えようがなかったからだ。本当に出たくなかった。
 1,2名の知り合いとは会ったが、あとはほとんど会わなかった。また、会っても私には気づかなかったようである。というのも、05年4月当初、これまでの心労と落胆が原因なのか、たくさんの髪の毛が抜けてしまった。研修所送りにされて、児童、生徒、同僚と会うこともなくなった。そこで、気分をかえてカツラをつけることにした。(詳細は省くが、いきなりカツラをつけるのではなく、5月下旬頃から徐々に増やしていく方法でつけていった。7月あたりになると、自分でもびっくりするほどの変わりようで、驚いた。)
 また、幸か不幸か、この年の夏は大変な猛暑だった。だから、暑かったせいもあるが、研修会場ではなるべくハンカチを口にあてて、汗をふいているふりをして顔を隠した。
 その結果、こちらが知っている人でも、私から声をかけないとほとんどの人は私だとは、わからなかった。もちろん、自分で知らせることもなかった。


◆◆ 05年8月 ◆◆

 ◯ 「共感的理解」に努めよう ◯

 多くの研修講座に出ると、つまらなくて、疲れるものが多かった。しかし、なかなか面白い話も聞けた。といっても、学習指導要領のことなどではなく、その人の人間性についてや実体験の話が面白かった。
 それにしても、講師が成功体験を話すのはまだいい。しかし、それでもって「だから、こうすればこうなる。」と結論付けられることが多かったのには参った。「それはあくまでも、あなただけのレアケースでしょう?」と心の中で思いながら聴いていた。そういう怪しい話を他の受講者は大きく頷きながら聞いていたのには、薄気味悪いものを感じた。
 それでも児童理解、教育相談についての話は聞いていて、「なんだ。それでいいじゃないか。」と思わされることが多々あった。やはり、これからは「共感的理解に努めること」が大切なのだと改めて思った。
 もちろん、これまでも私は学校現場で児童に対して共感的理解に努めていた。でも、当局がそういう私の姿勢に対して「NO」を突きつけた結果としても、私は「不適格教員」になったと、この頃は考えるようになっていた。
 ここでの話を聞いて、やはり自分自身の少なくてもおおもとの考えは間違ってはいないと思った。だから、次に学校現場に行くときは、「共感的理解」を徹底的に行おうと考えを強めた。

 ◯ 親戚には言えなかった ◯

 困ったこととしては、この8月のお盆は親戚一同で集まった。この1月に祖母が亡くなったからだ。
 「不適格教員」にされてからは、実家にも「忙しさ」を理由にほとんど帰らず、両親にも事情を話さなかった(このことは、その後、いろいろな意味で生きてくる。「07年2月」の項で詳しくふれる。)。
 お盆の席では、親戚からも「(О・Kは)今学校では何をしている?」と聞かれたが、早めに酒で酔い、適当にはぐらかしてやり過ごした。その親戚の1人が、翌06年6月に急逝してしまった。特にお世話になった方の1人だっただけに、「生還」を報告することができず、今でも残念に思う。

 ◇全国学校労働者交流集会◇
 お盆を過ぎてからは、研修講座もほとんど終えて、休みを取るようにした。そうして出かけたのが「全国学校労働者交流集会」である。
 ちょうど、05年は東京で開催された。そのことも運がよかったと思う。私は千葉学校合同に加入したとはいえ、このような集会の意義についてよくわかっていなかった。今ではどこにでも出かけたいのだが、なぜか当時は、もしこの集会が千葉から離れた大阪や福岡などで行われた場合、遠くに行くのはちょっと気が引けてしまっていただろう。
 今まで千教組の青年部の宿泊研修会には参加したことがあった。しかし、もうだいぶ前の20代の青年部期のことであり、このときは、ただただ県内の青年部員と飲み会などの「交流」をしただけであった。
 しかし、今回は、全国の独立系組合の人たちが集まり、「闘いの報告」をしていく集会のあり方に驚いた。数々の闘いを知らなかった自分の不勉強、不見識を恥じた。
 特に、大阪のIさんの闘いの報告は、私に大きな衝撃を与えた。(Iさんの闘いについては、大阪教育合同のHPで紹介されている。)Iさんの闘いに比べたら、私なんぞ、まだまだいい方だと思った。おかしなきっかけでもあるが、このときに「絶対に闘い抜こう。」と決意を新たにした。

 ◯ 雑誌「噂の真相」との出会い ◯

 また、私の読書生活の中で大きな出会いもあった。雑誌「噂の真相」の存在である。すでに休刊になっていた(04年4月号で休刊)のは残念だった。それでも次から次へと「噂の真相」関連の出版物を読んだ。ミニコミ誌づくりのあり方、「ものを書く」ということの姿勢などについて、(元)同編集長の岡留安則氏の生き方には大いに刺激を受けた。同誌が標榜した「反権力・反権威」の思想は、今の自分の思想の中核であるといえる。

 ◯ 8月末に旅行 ◯

 月末には旅行に出かけた。学校では8月末というと、もう新学期の準備に入っている頃であり、余程の事情がない限り、私的な旅行は行わないし、行えない。
 「不適格教員」になった功というのか、ともかく「新学期準備をしなくていい。」と考えて出かけた。その旅行では、静岡・熱川方面に出かけた。まだ残暑が厳しく観光客でにぎわっていた。それでも夏休み最後の週末ということもあって、にぎわっていた中にも「寂しさ」を感じた。それがまた味があるというか。私の場合、妙なところで、感心してしまうところがある。
 ともかくこの旅行では大いに楽しむことができた。これまで生きてきて、気ままな旅行をしたことはほとんど全くなかった。単なる「食わず嫌い」だったのだが、これからは、こういう体験を大事にしたいと思った。(この体験は、06年8月にも生きる。詳しくはその項で。)
 こうして書いてあると、当時、私が「不適格教員」になったことを楽しんでいたようにも思われるかもしれない。しかし、そんなことは全くない。当時も今でも当局を含めて全ての関係者に対して、猛烈に怒りをぶつけたくなるときがある。(先日も、Yさんに暴発しそうな自分を止めてもらった。)ただし、私が受けたものすごいストレスから、心身共になんとか救われたのは、千葉学校合同の支えと、こうした気分転換や、自分にとっていい刺激を適度に与え続けることができたからだとも思う。


◆◆ 05年9月 ◆◆

 ◯ 特殊学級体験は意味があった ◯

 月初めから10日間、船橋市・K小の特殊学級での「所外体験研修」に行った。
 当局が何を目的に、私に対してこのような研修を組んだのか、今のところ知る由がない。それはともかく、同校では、児童と同僚と大いに楽しんで過ごした。特に、同学級の主任の長井先生(仮名)は
「ともかく、この学級を、児童にとって楽しい場所にすることが大切なこと。」
という、「児童派」の考えを示していただいた。
 私は03年度に特殊学級を担当した。しかし、このときは同僚の「生活態度が大事だ。」「生活力の向上が大事だ。」などとして、「できないことを認めない指導に幻滅した。その体験があって、特殊学級・特別支援教育に対してはマイナスのイメージを持ってしまっていた。
 しかし、K小の長井先生の意見と、それに合わせた同僚の方々を見て、大いに感激した。私にとっては、この特殊学級・特別支援教育の現場にて、「児童への共感的理解」をさらに考えて深める大きな機会にすることができた。また、同僚の1人からは「О・Kさんは特別支援教育の素質があるから、ぜひ、やってみたらいいよ。」と言ってもらえた。ほめてもらえたことは嬉しかった。
 また、K小の佐藤校長(仮名)は、私が「不適格教員」であることを承知しながらも、私に対して嫌がらせを一切行わなかった。同校での研修終了後、佐藤校長に礼状を送ったら、後日励ましの返信をいただいた。
 極端かもしれないが「地獄に仏」だと思った。K小の後、何校かの研修場所では一部の方々を除き、あらゆる方面から様々な嫌がらせを受けることになる。当時を振り返るとき、K小の私への対応だけは「全くの平等かつ公平かつ親身だった。」と思っている。(そのことが、後に当局の誤算を引き出すことになったとも考えている。)


◆◆ 05年10月 ◆◆

 ◯ 教師は「権威」になってはいけない ◯

 10月には現場実習(「授業実践等研修」と称する)が行われた。9月に研修場所の希望を聞かれた際、「(所属校のH小のある)Y市ではやりたくない。」と答えた。Y市教委が私を排除しようとしているのは見え見えだったからだ。
 しかし、私の希望などは全くの反故にされた。まず中旬に10日間の予定で、市内のYM小に行った。
 ここでは5年生2クラスのうちの1クラスに入って、ほぼ全教科の指導を行った。私が指導をする際は、担任だけではなく、必ずKW校長とHT教頭、ときには八街市教委の人間もやってきた。特に何かを言うわけではない。しかし、ともかく私のあら探しをしようと必死になっていた。
 私がこの期間、気をつけたことは
「ともかく、余程のことがないかぎり、児童を叱らないようにしよう。共感的理解に努めよう」
ということだけであった。児童の様々な姿を「受け入れよう」と努めた。
 しかし、そんな児童に対する接し方は必ずしもいいことばかりではなかった。いわゆる「やんちゃな子達」には、それなりによかった。その一方で、ある種の児童、例えば「先生に認めてほしい。」という児童(私は「優等生」と呼ぶことにしている。)にとっては、私の対応は大いに不満だったようである。そういう児童にとって、教師というのはやはり「権威」であってほしいのだろう。
 そういう「優等生」的な児童の姿勢そのものは、「一教師」の立場としては大いにありがたい。しかし、私の場合、自分が「権威」になろうなどとは全く思わないし、なってはいけないと思う。
 児童にとって、私の価値観が唯一絶対ではいけないと思っている。私の指導から離れたときに、違う価値観にも接しやすくなってほしいからだ。だから、たとえば私に反発する児童がいても、その児童が自己否定をしないようにしてあげることが大切だと思っている。そういう私の考えに対しては、
「それでは児童に正しい価値観が育たない。」
「共通理解・共通実践が基本の学校現場において、一人でも『緩い先生』がいると、そこからほころびになって、学級崩壊や学校崩壊が起きるのだ。」
という意見もあった。実際に、かなりの攻撃を受けた。
 しかし、現在ある「正しい価値観」というものは、本当に確かなものなのだろうか、大いに疑問である。
 「共感的理解」という考えに至ったのは、確かに私自身が「不適格教員」という不当な立場に立たされたこともある。しかし、それと同時に千葉学校合同で様々なことを学ぶうちに、当局をはじめ権力側が述べる「正しい価値観」というのは、所詮は「体制に対して従順な」という程度のものであると考えるようになったからでもある。私は、改めて
「教育は体制に対して従順な人間を育てるために行われるのではない。」
と思った。そういう私の考えは、時に
「それなら、公務員をやめて、私塾を開けばいい。」
と攻撃を受ける。しかし、それでも、私は自分から「教師をやめよう」などとは、全く思わなかった。それは今でも変わらない。

 ◎ なぜ教師をやめなかったのか ◎

 「不適格教員」になって、当局から攻撃を受け続けても、私が学校から去ることを、教師をやめることを選ばなかったのはなぜか?
 当時を振り返ると、大きく2つの考えからである。
 1つは、単純に「労働者」として、私自身の生活を守りたかったからである。他に仕事のあてがなかったからである。
 もう1つは、私が本当に教師として「不適格」なのか、それを確かめてもいないのに、やめることなど、私にとっては「逃げ」でしかないと思ったからである。

 ◎ 私の教育観 ◎

 私の教育観も述べておきたい。私は研修所に送られる前からもそうだったが、いわゆる「リーダー」「優等生」というものを育てる指導は苦手だった。いや、むしろ否定していたし、拒否もしていた。
 「一人一人が大切」「みんなちがっていい」「様々な個性」・・・、現実的には無理なこともあるけれど、「どの子にも自己存在感をもたせる。」ことが、自分の教師としての使命だとも思っている。
 「自己存在感」・・・、私にとっては、少なくても「自殺」という選択肢を選ばないで生き続ける「気力」を指すと考えている。
 たかだか小学校の一時期に、たまたま気の合う教師に認められた児童が、そのまま実社会において「リーダー」とか「優等生」になって生きていくことができるのかというと、私にはとてもそうは思えなかった。
 中には素質として「リーダー性」なるものを持った児童がその能力を伸ばしていくこともあるだろう。しかし、それは「まれなケース」だと思う。学校や教師だけではない巡り合わせなど、様々な要因が合わさっていると思う。
 数ある小学校の数あるクラスの中の1つで、たまたま「クラス(又は学級、学年、果ては学校)のリーダー」などと祭り上げられたことが、後々、本人の足かせとなって、その反動で様々な障害を生んでしまう場面を、これまで私はたくさん見てきた。
 結局は「栄枯盛衰」「盛者必滅」であると思う。
 私も過去には、スポーツの指導などで「競争」にこだわったこともある。しかし、今では私は「優劣」や「勝敗」について、あまり頓着していない。所詮は、人間として生きていく中では、様々な浮き沈みがあるということだと思う。いいことばかりでもないけど、悪いことばかりでもない。いいことも悪いことも解釈次第でどうにでもなる。それを伝えていくことが大切なのだと思う。
 そうはいっても、肝心な自分がまだまだいろいろな出来事に感情を揺さぶられることがある。あるというより、多い。人間修行に終わりはないのだろう。

 ◯ 研修校でのあら探し ◯

 話をYM小に戻す。私はKW校長、市教育委員会には毎日、監視されて、あら探しをされた。そういった権力側からの攻撃に、私は大いに疲弊した。
 「もう、『不適格教員』になってしまった以上、何をしても無駄なのだ。オレはもう教育現場に帰れないのだ。」
と絶望しかけた。ただし、YM小の5年生との関係だけは最後まで良好にしようと努めた。そのことだけが、私の心の支えだった。
 しかし、あと1日でYM小での現場研修を終えるところで「研修打ち切り」との通告を言われた。何が悪かったのかKW校長に聞いた。
 すると
「これ以上、О・Kが授業をすると児童がダメになるから。」
とだけ言われた。何がどうダメになるのか、全く示してもらえなかった。
 それでも
「もともと10日間で別れるはずの児童だったのだから。」
と割り切ることにした。感覚的に、私を拒否する児童はいたが、直接的に、私が何か悪いことをしたから拒否するようになった児童はいなかった。
(この私の解釈は今でも間違っていないと思う。その後の交渉申し入れや話し合いにおいても、当局も認めている。)


◆◆ 05年11月 ◆◆

 ◯ 人けなさない。批判しない ◯

 それでも失意の中、今度もまた10日間(実際には祝日があったので、9日間)の予定で、所属校のH小で4年生に授業を行った。
 森校長(H小前校長、仮名)、山本教頭(仮名)、八街市教委の粗探しは相変わらずであった。しかし、救いだったのは、このとき、4年生クラスの担任が私の友人のYZさんだったことである。
 YZさんは、私が研修所送りにされても、差別するような態度をとらずに私と接してくれた。これまでも何度か一緒に飲んだりする仲でもあった。彼なりに私への哀れみもあったのだろう。私は彼との付き合いの中で、極力愚痴を言わず、彼の学校現場での話に耳を傾けた。
 後に彼は
「なかなか同世代、それも同い年で話せる人が身近にいなかったから、(О・Kの存在が?)嬉しかった。」
と、述べてくれた。私が書くのは、やや恥ずかしいのだが、彼の私の評価というのは「口が堅い」「人をけなさい。否定しない。」ということだという。
 「口が堅い」というのは、過去、自分自身が、「ここだけの話」をしたにもかかわらず、他言されたことがあって、嫌な思いをしたからである。そのときに懲りて、本当に信用できる人以外は、自分からは物事をしゃべらないようにしてきた。また、聞いた話も、自分と直接利害関係にないことは、なるべく覚えておかないようにした。どうでもいいことは早く忘れるに限る。
 「人をけなさい。批判しない。」というのは、それが非生産的であると思うからだ。もちろん、今でも権力や権威の批判はする。しかし、こと個人のありようについては、これも自分と直接利害関係にない人の評価はしないことにしている。「利」があればほめるけど、「害」になる人の場合は、できるだけ話題に出さないようにした。話題にしたところで前向きな結論が出せるとも思えなかったからである。
 とはいえ、私も、これまでの経験で、人をけなしたり、批判したりしたこともある。今振り返ると、非生産的どころか、破壊的でしかないと思う。具体的なことは割愛するが、本当にいやなものだ。

 ◯ 説明のない現場研修打ちきり ◯

 YZさんは真摯に私を迎え入れてくれた。またクラスの児童も同様であった。また、他にも後輩の羽田さん(仮名)、同僚の小森さん(仮名)、相田さん(仮名)が陰で支援してくれた。そのおかげもあってか、当局や森校長、山本教頭(いずれも仮名)、Y市教委があら探しをすることを気にしなくなった。
 「もう勝手にすればいい。オレは子ども達と『たのしい時間』をつくるだけだ。」
しかし、またもや今度は5日間で打ち切られた。理由はこの場でも一応、嘱託の佐伯氏(仮名)から直接言われた。
「あんな授業ではダメだ。」
とのことだった。ここでも、何がどうダメなのか、全く示されなかった。結局今になって思うのだが、「あんな授業では(小川のあら探しができないから)ダメだ。」ということだったのだろう。そのことは06年2月に何となくではあるが、わかることになる。
他にも、森校長、山本教頭、Y市教委にとっては、私とYZさんとのつながりが意外だったのだろう。
 このときは、私はこういった事態(研修を途中で打ち切り)になることはある程度、予想できていたので、YM小のときに比べたら、そのときは自分のショックはそれほどでもなかった。しかし、私以上にYZさんがショックを受けてしまった。
 後からわかったのだが、研修打ち切りになった当日の朝、同僚の小森さん、相田さん(いずれも仮名)が森校長に、私を救済するよう直談判をしてくれた。そもそもの私が「不適格教員」にされたいきさつが、客観的に見ても「不当である」とも添えてくれた。 その際、森校長は、小森さん、相田さんからの申し入れを受け入れたような対応を示した。しかし、その日の午後には「研修打ち切り」が私に通告された。このことで小森さん、相田さんもショックを受けてしまった。
(後に小森さん、相田さんたちは本人たちの希望もあって、06年3月でH小から他校へ異動していってしまった。)

 ◯ 研修所で「人格攻撃」 ◯

 私は現場実習が打ち切られて、研修所に戻された。そこでは「反省レポート」なるものを書かされた。しかし、何をどう反省すべきかもわからないから、書きようがなかった。
 また、このときから、佐伯氏から数多く罵倒された。はっきりいってて「人格攻撃」だった。しばらくしてから、佐伯氏(仮名)よりおかしな質問を受けた。
 「私も、過去において、同僚などに対して迷惑をかけてしまい、『すまなかった』と反省することがある。О・Kも心当たりはないか?」
 この質問で私がH小で「研修打ち切り」を受けたのは、「怪文書の主」として扱われたからだと判断した。

 概略はこうである。05年5月末に、私の自宅に、「佐倉市・IM小のH校長と、H小の初森(仮名)は不倫をしています。」という内容の匿名の怪文書が届けられた。その内容については、山崎さん、羽田さん、小森さん、相田さん(いずれも仮名)には知らせてあった。もちろん、出所は私ではないとはっきりさせた上で、である。
 ともかく事実の裏付けができないし、する気もない以上、下手に騒ぐこともなく、怪文書そのものを「塩漬け」状態にしておいた。
 ところが、不倫の当事者とされた初森氏は、私がH小の現場実習をした5日間を含めて、のべ6日間連続で年休をとって休んでしまった。その理由というのも、伝え聞くところでは初森氏が
「О・Kが『私とH校長が不倫をしている』という情報を流している。О・KはH小にやってきたから、また他にも持っている情報を流すのではないか。そう考えると、怖くて学校に行けない。」
という内容の言葉と、相当混乱した様子だったとのことだった。
 私は、この期間の初森氏(仮名)の状況は知っていたが、どうにも腑に落ちなかった。なぜなら、私にとってはあくまでも「怪文書」でしかなく、それも一部にしか伝わっていないはずの情報だからである。こうして初森氏が混乱することによって、初森氏は自らから「私は不倫をしています。」と公言しているようなものではないか。同僚の小森さん、相田さんも
「О・Kさんが流したとされる情報がデマで、『不倫をしていない』というのなら、毅然として学校に来ればいいのに・・・。」
とのことだった。
 研修所では、いくら佐伯氏が私に尋問しても、私は「怪文書を書いていない」としか言いようがなかった。また、もともと「ない」ので、証拠がつかめない以上は、研修所も追及しようがなかった。
 
 後日談である。この05年12月末にH小の職員で忘年会が行われた(もちろん、私は呼ばれることなどなかった)。その際、YZさんは「病気」を理由に欠席した。
 年末も押し迫った頃、YZさんは私との飲み会を設定してくれた。その際、そのことを言ってきた。私は「まさか、オレのために、ちょっとした仕返しをしたのか?」と聞いた。YZさんは無言でニヤリとしたままだった。


◆◆ 05年12月 ◆◆

 ◯ つづく研修所の嫌がらせ ◯

 研修所で罵倒される毎日は続いた。私はじっと我慢した。佐伯氏(仮名)に対しての怒りは増すばかりだった。しかし、佐伯氏がもといた地域は、同時に千葉学校合同のある東葛飾教育事務所の管内でもあった。研修所から出られた際は、うまく佐伯氏に取り入って、この管内に移ろうと考えていた。千葉学校合同としても、そういう方針だった。
 しかし、現場実習を途中でうち切られ、私が毎日、佐伯氏から罵倒されていくうちに、千葉学校合同としても不安を感じてきた。
 ただ、私は、ここはじっと我慢して耐えるしかなかった。
 この時期は、指導案を書かされることが増えた。もちろん、できあがった指導案をさして、佐伯氏から「こんなものは最低ラインだ。」などと嫌みを言われた。実際の児童を想定しているわけではないので、書きようがないから仕方ない。一般的な内容でしか書けるわけがない。
 今考えると本当にやけを起こして、佐伯氏はじめ関係者を殴り飛ばしてとやろうと何度思ったことかと思う。
 千葉学校合同に加入していながらも、公然組合員として活動していいものかどうか大いに迷った。
 ある意味でもっとも辛かった時期である。


◆◆ 06年1月 ◆◆

 ○ 仮説実験授業 ○

 年が明けてすぐに仮説実験授業研究会(同研究会については、ここでは割愛する。)の全国大会が高知市で行われた。その席に、高知県教委の大崎教育長がやってきた。
県教育長といっても、側近などを連れずに、全くのプライベートでやってきた。えらぶるところなどなく、全国からの参加者に対して、真摯に対応していた。
 さらに高知県内の現場教員が軋轢を感じながら仕事をしていることに対して、他県の我々の前で、きちんと謝っていた。このような姿勢を見て、かえって大崎氏が気の毒に思われた。県教育長ですら、どうにもならないことがあるのかと。
 しかし、ひるがえって、千葉県教委の佐藤教育長に大崎教育長と同様のことができるかといえば、期待する気にもなれない。

 ○ 研修所での職員とのやりとり ○

 数日後、研修所で、面接なるものが行われた。何の前ふりもなく、研修所の職員がよってたかって、私に質問をしてきた。一部を書くとこんなやりとりがあった。

・職員「現場実習における反省は何か。」
・О・K「授業をして、あまり児童に食い込むことができなかったであろうことです。」
・職員「では、きちんとやらなかったということか。」
・О・K「私としては、できる限りの取り組みをしました。しかし、本当にそれを評価するのは授業を受けた児童や見た方々だと思います。私は自分で評価を述べる立場ではないと考えます。」
・職員「君には自分の考えがないのか?教師が自分の実践を自己評価せずに、実践の向上はない。是非ともするべきだ。」
・О・K「舌足らずでした。私は自分で常に自分の実践を評価しています。その場その場でできる限りの実践を心がけてもきました。しかし、私が『精一杯している』と述べても、それは私の主観であり、他の方々に『していない。』と言われれば、結局は認められないと考えます。自分では『できた。』と思い込んで、傲慢になってはいけない。常に謙虚でいなくてはいけないと考えます。ですから、私自身の主観的な評価よりも児童の評価や参観された方の評価を大切にするのです。」
・職員「現場実習では他の先生方と授業について話し合ったか。」
・О・K「もちろん、話し合いました。ただ、それでも、個々の場面において『ああしておけばよかった。』『こうしておけばよかった。』という反省は残ります。」
・職員「それは誰にでもある。挙げていけばきりがない。」

・職員「君は、子どもは好きか。」
・О・K「好きです。」
・職員「今回の現場実習で印象に残った子はいるか。」
・О・K「はい。YM小でのA君です。担任の先生によく悪態をつく子でした。私に対しては悪態をつくことはありませんでしたが。」
・職員「その子に対して、О・Kはどうしたか。」
・О・K「今になってみたら、もう少し『担任の先生とうまくつきあう』ために指導したほうがよかったかなと思っています。でも、実習中だけでしたが、その子が特別誰かをいじめたり、乱暴を働いたりすることはほとんどなかったので、黙って見守っていました。」
・職員「それでいいのか。そういう場所で指導するのが君の役目ではなかったのか?」
・О・K「舌足らずでした。私も1日目か2日目に『A君はあれでいいのでしょうか?』と聞いてみたら、担任の先生が『4、5月はよく叱ったけど、その後はできるだけ見守ることにした。』というので、担任の先生の方針に合わせることにしました。実際にもう10月も後半でしたから、もしかして担任の先生とA君は1年のリズムの中で、たまたま関係が悪い時期に私が出くわしただけで、その後私がいなくなった後で、関係を良好にできたとも考えると、そこで私が無理に指導する必要があったのかと考えます。ただし、今振り返ると、やはり私なりにA君に話すことはしてもよかったと今になって考えるときもあります。」

・職員「君が、もし子どもだったらとして、(1)全てきめ細やかに児童に対応するパーフェクトな先生と、(2)何かとぬけているばかりのいたらない先生と、この2人のどちらに担任してほしいと思うか?」
・О・K「あえていえば、両方の方とも担任してほしいです。パーフェクトな先生にはもちろんきめ細かな指導をお願いできると思います。また、『ぬけているばかり』の先生だって、全然向上心のないような方はいやですが、自分で『ぬけている』ことを自覚して向上を目指している方なら、そういう先生もいいと思います。人間的にも共感できると思います。児童の様々な失敗に対しても理解してもらえるだろうと思い、一緒にいて安心できると信じています。」
・職員「今の君を見ていると、前者の『パーフェクトな先生』の方に近いように見えるし、そちらの方を目指しているように思える。」
・О・K「あくまでも、それは評価する方の主観だと思います。しかし、私は自分でいたらぬところばかりだと思っています。」

・職員「君の研修課題で、『コミュニケーション能力を高める。』とあるが、特に心がけたことは?」
・О・K「『話を聞く。』ということです。」
・職員「それについては、どうか?」
・О・K「自分自身の主観で『できるようになった』と言ったとしても、『いや、О・Kはできていない。』という評価を下されることもあるので、私としては自分の考えを言いかねます。」
・職員「では、君の主観でいいから聞かしてほしい。」
・О・K「私個人の主観でなら、『向上した』と考えています。」
・職員「ということは、今までは話をなかなか聞かなかったのか?」
・О・K「はい。聞くべき話とそうでない話を自分で分けて考えて、聞いていた部分はあります。」
・職員「それが、どう変わったのか?」
・О・K「どんな話も、まずは聞いてみようという気になりました。」
・職員「そういう姿勢を教員として、これからどう生かしていこうと考えているのか?」
・О・K「教員としてよりも、その前に自分自身の向上に生かしたいと考えています。」
・職員「話の聞き方だけでなく、話し方の向上も目指してください。『聞き上手』は『話し上手』につながるのですから。それが『良好なコミュニケーションづくり』というものでしょう。

・職員「今後の自分の見通しをどう考えますか?」
・О・K「今の私の立場で、それを答えてよろしいのでしょうか?」
・職員「(一斉に)当然だ。それを答えなくてどうする?! 君は現場に帰りたくないのか?」
・О・K「帰りたいです。」

・職員「この面接での君の言葉はよく整っている。しかし、肝心な君の気持ちが何も伝わらない。」
・О・K「解釈によって変えることができることについては意見を述べようがありませんので、解釈で変わる可能性がある表現は避けるようにしています。」
・職員「それでは、良好なコミュニケーションを構築するのは難しいよ。」
・О・K「はい・・・。」

 私としては、思ったままを答えただけであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。そのことについて、佐伯氏は
「お前は、全部人のせいにしている。全て自分に都合よく解釈している。」
と、またも人格攻撃をしてきた。
 私の我慢がいよいよ限界にさしかかった際、H小にて、次年度の私の処遇を決める「判定会」が行われるとの連絡が入った。
 このときの森校長(仮名)の発言は以下のとおりである。

 「(05年)12月20日に、県総合教育センターで話し合いがあったとき、ニュアンスからいって、あなたの現場復帰は難しいだろうと思う。」
 「(研修延長の)命令に逆らうわけにはいかないでしょう?」
 「現場実習で、あなたが子ども達のことが好きなのは、よくわかったから、もう1年研修にしっかり取り組みなさい。」
 「意見陳述はするの?(私がすると言ったら、)、えっ、するの?」

 ○ 千葉学校合同組合員であることを公然化 ○

 このやりとりから、私は「来るべきときがきた。」と考え、千葉学校合同の公然組合員として立ち上がることを決意した。もっとも、そこからの千葉学校合同の行動は迅速だった。Yさんが即座に連絡をし、組合員を結集させた。
 そして、迎えた判定会の会場では、判定会への入室を要求する千葉学校合同と拒否する当局職員とのやりとりがあった。
「こちらは、正当な要求で来ているのだ。中に入ろうとして何が悪い。」
「この場から退出願います。いいから出ていってください。」
「VTRを止めろ。」
「いや、上司からの命令ですから、止められません。」
 こういった言葉のやりとりは、文章にすると大して激しくはないのだが、実際のやりとりは、本当にすごかった。怒声が飛び交う中で、私は足がすくんで動けなかった。大げさではなく、このとき「戦慄」を感じた。
 しかし、同時に千葉学校合同の面々の堂々とした態度は、私を一層勇気づけてくれた。
当局の職員は「まさか!」という表情でいたように見えた。「関係者」として、やってきた森校長(仮名)、市教委の麻生課長(仮名)も驚きの様子で、困惑したと読み取れる表情でYさんからの名刺を受け取っていたのが印象的だった。
 この件には、前段がある。私は判定会の会場に、「関係者」として、「代理人」の同席を要求していた。しかし、当局から事前に森校長を通じて拒否された。よって、千葉学校合同の名前はぎりぎりまで伏せておいたが、このときのやりとりがより効果的になったと後から思った。
 後に、千葉学校合同で、
「もう少し早い段階でО・Kが公然組合員として、組合として動いておくべきだった」
という反省がでた。
 確かにそれもあるだろう。
 しかし、この「不適格教員」という制度そのものは、実はその建前とは裏腹に、全くの恣意的判断、秘密裡、数々の脅迫行為など人権蹂躙のもとに運用されていたわけである。この実態は、千葉学校合同でも、私「О・K」という実例を見るまでは全く把握できなかったのだから、仕方なかったと考える。
 逆にいえば、ここまで公然組合員をして動くことを伏せたことで、実態を引き出すことができたと考えたい。そうでなければ、千葉学校合同も私もうかばれない。

 ○ 権力との緊張関係を自覚 人格攻撃が止まる ○

 ともかく、私はこの出来事までは、県教育委員会上層部の「良識」を最後まで信じていた。
 しかし、ここで戦慄を覚えた瞬間、全ての価値観が変わった。そして、私自身が、これからは権力側と常に緊張関係を保ちながら生きていく立場に立ったことを改めて自覚した。
 判定会の翌日、研修所の多くの面々は苦虫をつぶした顔をしていた。判定会での状況を伝え聞いたのだろう。そして、佐伯氏からの人格攻撃がぴたりと止んだ。
「あの組合(千葉学校合同)は過激で名が通っている。」
「何で、あの組合に入ったのだ。千教組をやめてからは、組合には全く入っていなかったのではないか?」
「なぜ、組合(千葉学校合同)に相談する前に、私に相談しなかったのだ。」
 いずれも、佐伯氏の苦し紛れの発言である。すでに退職して嘱託だったとはいえ、松戸市内では大物校長との評判を得ていた人間である。
 となりの市とはいえ、千葉学校合同の評判はよく知っていたのだろう。佐伯氏自身が引導を渡すべく、担当した私が、当局にとって「鬼っ子」である、千葉学校合同に加入した事実を押さえることができなかったわけである。当局から叱責を受けたことは、上記の発言からも容易に想像できた。何より人格攻撃が止まったことが大きな証拠といえるだろう。
 これまでの、人格攻撃に比べれば、この程度の尋問(詰問?)は何のこともない。私は適当なことを言ってやり過ごした。Yさんからも
「首謀者ではない佐伯氏は、もう相手にするな。」
と言われた。千葉学校合同の面目躍如である。


◆◆ 06年2月 ◆◆

 ◯ 千葉学校合同の鋭さ ◯

 私は公然組合員として立ち上がった。以降、当局とのさらなる対立は不可避になった。ともかく闘うしかない。
 しかし、当時の私は率先しての闘争は控えなければならなかった。私の態度によって、当局の私への処遇のさじ加減が決まるからである。
 千葉学校合同としての行動にはできる限り参加した。集会では支援を訴えた。市教委に乗り込み、これまで一方的に嫌がらせをしてきた職員に対して学校合同に反撃をしてもらった。あくまでも言論の場で、である。
 どこにおいても私はほとんど全く発言することができなかった。しかし、千葉学校合同の面々の物言いは、本質をずばりとえぐるすさまじいものだった。特にこれまで市内教育現場で権力をほしいままにしてきたY市教委の面々が、たじたじになる様は、見ていて溜飲をさげる思いだった。
 これまで私は権力側に対して、これほどまでに正々堂々と渡り合う人たちを見たことがなかった。また、それができることすら知らなかった。そのことが大いに悔やまれた。何かをしたくてもできない立場、というより、何かをしようとしても、どうしたらよいかわからないし、その術を知らないもどかしさの方が大きかった。
 それは、今でも組合活動の「いろは」の「い」すら理解できていないというもどかしさを感じている。もっと勉強しなくてはいけない。
 私自身もそうだが、大人の学力低下の方が問題だと、改めて思った。

 ◯ いまだに残るY市の有力者接待と用務員のクビきり ◯

 話を2月に戻す。私の処遇が決まらず、次の手を考えていた矢先、所属校のH小の羽田さん(仮名)から、
「用務員の村次さん(仮名)がクビになった。」
という連絡を受けた。ほぼ同時に、村次さん本人から私に助けを求められた。そこで、千葉学校合同のYさんと私、それと、後に村次さんが加入する全関東単一労働組合(全関労)の専従組合員のKОさんとで村次さんから事情を聞いた。

 村次さんは05年4月から「派遣請負」ということでY市教委に派遣採用された人である。学校現場も用務員の仕事も初めてであった。
 なぜ、その人がクビになったのかというと、村次さんとしては、
「接待でミスをした。」
からだというのである。

 一般には、公共の場であるはずの、学校現場で特定の人に対して「接待」が行われているとは思えないだろう。
 ただし、学校が「地域とのかかわり」を大切にする以上、地元の名士や有力者に対して、「接遇」を超えた「接待」をする場面があるのは、仕方ないといえる。やはり政治と教育は分けることはできないのだろう。都市部から離れるほど、それは顕著のようだ。
また、学校が市町村教委の監督、指導で運営されている以上、上司にあたる市教委職員に対して、「接待」をする場があるのは、本音としてはありえる話である。
 しかし、度が過ぎる接待は考え物だ。地方公共団体の財政が逼迫していると言われて久しい。そういったご時勢の中、高額の仕出し弁当を「来賓」に出す。教頭や事務職が職務時間内に生け花をして、それを校内に飾る。児童に「自分のことは自分でするように。」と指導しておきながら、来校者の靴を名札つきで並べてあげる。来校者が校内を見回った際に、休憩の度に「おしぼり」や「茶菓」を提供する。本来、正式な職務をしただけであるはずの教育事務所職員や市町村教委職員に対して「わざわざ訪問して指導していただいた」として、「手土産」を持たせる。等など。
 これらの費用は全て県民の税金で行われているのである。

 ◯ 労働組合の力 ◯

 話を元に戻す。この村次さんは、その「派遣請負」の業務の中で、全くの手落ちがなかった。しかし、接待の場において、
「来賓の靴を並べ間違えた。」
との理由で、山本教頭、事務職の大田主任主査(いずれも仮名)から執拗ないじめにあい、森校長(仮名)が最終的に派遣会社に対して、村次さんに「解雇通告」をするよう策動したのだ。
 森校長と山本教頭はここで大きなミスを犯したといえる。特に山本教頭はこれまで様々な職場において、同僚の公務員に巧妙な「いじめ」をしてきたとの評判である。しかし、村次さんは、公務員ではない。派遣職員は、公務員とは身分も法律の適用も全くといってよいほど異なる。山本教頭は「派遣職員」を全く理解していなかった。管理職としての必要不可欠な法的知識が浅はかであったことをさらけ出してしまったのだ。
それどころか、全関労のKОさんによると、Y市教委までもがれっきと「偽装請負」をしていたということである。
 この件で、私は、行政への監視の目を強くする必要性をさらに感じた。
 また、この件は、一見すると直接的には私とは関係のないように思える。私としても、あくまでも同僚から、内々に知らされて、そして、Yさんに伝えただけである。そしてYさんも「用務員」という職種の特殊性から、全関労に伝えてくれたからということもある。
 しかし、後々の07年1月に、Y市教委が私への解雇を策動させた際、このときの全関労とのかかわりが、大きく生きてくることになることを、当時はまだ気づいていなかった。
 その後、村次さんは全関労の働きで、「円満退職」の形で退職金や、超過勤務分の手当てを確保することができた。

 ◯ 監視付き現場実習に ◯

 下旬になって、突如、森校長より「06年度は監視付き現場実習」という通告を受けた。翌日に、県議会議員の吉川洋先生(無所属、柏市選出)のご尽力で、県教委の担当者である野本教職員課長(当時、仮名)との話し合いが控えていたのに、である。
それでも吉川先生同席のもと、千葉学校合同と野本教職員課長との話し合いがもたれた。 しかし「О・Kの即時現場復帰」という、千葉学校合同の要求は、全く無視された。
けれども、情報開示で得ていた、判定会で提示されなかった市教委作成の、嘘とでっちあげの「研修所での研修延長の要請」文書を徹底的に追及した。野本教職員課長と同席した本川管理主事(当時、仮名)は
「『教育長が書いたものに間違いはない』という前提で、申請書を見ている。今回の判定結果は総合的に見て決めたものだ。」(主旨)
との発言で、Y県議、千葉学校合同を唖然とさせた。
 他にも情報開示で得ていた、05年9月の船橋市・K小での高評価についての説明を求めた。これについても、本川管理主事は
「あれは、現場実習とは違う。それに、特殊学級での研修ではないか。」
という主旨の、障害者差別とも解釈できる、教育者としてあるまじき発言を行った。
 船橋市・K小での高評価については「教育の世界にはうとい。」という吉川県議も、
「確かにО・Kさんは、八街市では評価が悪いかもしれないが、他市ではいい評価をもらっているのだから、そういう市に異動させることはできないのか。」(主旨)
と、野本教職員課長を追及した。(結局は、この要望も全く無視された。)
 このとき、Y先生自身が、かえって「教育の専門家ではない。」(吉川県議の弁)ことが、奏功したと思った。

 冷静に考えれば、私への「研修所での研修延長」は当局の既定路線であったかもしれない。
 05年末に翌年度の県予算案が提出されている状況では、06年の2月に私の給与差別の状況などがひっくり返るわけもない(研修所にいる間は、「昇給停止」だった)。だから、私の給与は「不適格教員」の予算として、確保されていたのだろう。
 05年末といえば、私はまだ千葉学校合同の組合員であることを伏せてきた。
 「千葉学校合同」と私の関係は、当局や研修所は一切関知しておらず、ましてや八街市教委には「千葉学校合同」という言葉すら知られていない状況で、粛々と私の研修延長が策動されていたのだろう。それは先述した05年1月の森校長の発言から読み取れる。
(しかし、後に06年4月になって、実際に「監視付き現場実習」となった際、少しだけ昇給したことを伝えられた。このことからも、千葉学校合同や全関労、吉川県議の力が、県教委に作用した結果だと考えるべきであろう。)

 ともかく、06年1月末からの、この1ヶ月の千葉学校合同の行動が「事態を寄り戻した。」のだと思った。
 当然、「監視付き現場実習」という処遇に不満は残った。しかし、それ以上に、千葉学校合同はじめ、様々な方々の行動力に支えていただいたことに感謝したい。
 また、立場や勤務地はともかく、4月からは学校現場で児童と向き合えるようになったこと自体は、素直に喜ぶことができた。


◆◆ 06年3月 ◆◆

 2月下旬に「次年度の処遇」の結果が出てしまってからは、研修所ですることもほとんどなくなった。いや、私のパソコンに保存してある「研修日誌」には、ほぼ毎日「指導案を書いていた。」とあるが、あまりよく思い出せない。
 研修所の面々も私と千葉学校合同とのかかわりを知ってからは、ほとんど何も言わなくなった。「言えなくなった」というのが、正しいだろう。実際に、こんなことがあった。主任指導主事の鈴本氏(仮名)が、2月に
「О・Kのことで八街市教委が話し合いをするのは、団体交渉にはあたらない。」
という発言をした。ことを私がYさんに伝えた。即座にYさんが研修所に電話で抗議をして、鈴本氏を黙らせた。

 何度か申し入れを行って、1度だけ八街市教委の齋藤 勝教育長と話し合いを持つことができた。本来「06年度は戻ってこない。」とされていた私を「研修」という身分であれ、学校現場に戻さざるを得ない状況に、困惑していたようである。
 結局、中旬に連絡が入り、06年4月からは「H小に戻る」ことになった。
 今振り返ると、当局は、千葉学校合同や吉川県議に対しての「意趣返し」として、私を八街市内にいさせることしたのだろう。さらに、八街市教委も、県教委に自分たちの要求を反故にされたことを、私にぶつけるために私が不本意と感じるであろう、H小に戻したのだろう。

 当然、私はH小に戻ることは大いに不満かつ不本意であった。特に森校長、山本教頭(いずれも仮名)が残留したことで、もっとも身近に敵といること、八街市教委の追い落としが大いに予想されたからだ。
 しかし、友人である山崎さんや後輩の羽田さん(いずれも仮名)は、4月からもH小にとどまることが分かっていた。そのことが、多少の安心感にもなった。また、千葉学校合同でも、Yさんが
「今度は、勤務条件等について、八街市教委や、森校長を団体交渉の場に引きずり出すことができる。」
と言ってくれた。逆に私が異動していたら、直接的に攻め入ることは難しかったということなのだそうだ。
 物は考えようであると思った。千葉学校合同に加入して、公然組合員として活動するようになってからというもの、何でも「ポジティブ」に考えようと、今まで以上に努められるようになった。
 また、実際に、そういう「ものの見方、考え方」を身につけはじめたことで、私自身のストレスとのかかわり方も、大いに変わっていったと思う。