郷土教育運動とアナーキズム(機関誌08.05/No.586掲載)

  • 2008/05/12(月) 22:09:37

郷土教育運動とアナーキズム

                          М・K(会員)

 3月桜が咲き始める季節に、今年度の総会も無事終わった。

1 郷土教育運動の再認識


 「郷土教育全国協議会」の会員たちが今やっていることを新たな言葉にする必要があると思う。
 機関誌を出す、毎月集まる、よりよく生きるためにはこの社会をどうすればいいのかについてみんなで模索しあう。
 これを続けていることの意味とは、これまで、価値認識や認識変革という言葉で語られてきた。しかし、時代の流れは逆転している。運動が働きかけるべき民衆の置かれている状況が激変しつつある。これは双方向から考えなければならない。働きかける対象としての民衆。そして運動を担うべき主体−−われわも時代の流れにいやおうなしに巻き込まれていく民衆だ−−が、運動の場をどこに置くか。
 であるから、いま、私が「アナーキズム」という言葉を提起してきた意味は二つある。
 「郷土教育全国協議会」には、語られないが、貴重な財産がある。それは、居心地のよさ、会員各位の人格の高さと優しさ。人を優しく受け入れてくれる大人の寛容。『癒し系』ですね。今、これがなかなか社会の中に見当たらない。そしてそれは、理論的にいえば、相互扶助と自治を支えるためになくてはならないものだ。

2 教師たちの現場


 今の労働者の賃金労働は、古代ギリシャにおいて主人が自分の奴隷を人に貸し出したのを起源とするが、現代の賃金労働は自分の時間労働を売り渡すことだ。労働の消費者は企業で、この消費者は強い王様だ。
 賃金労働者の場では、その労働の目的、内容を自分で決めることはできない。古代ギリシャと現代との違いは、誰が賃金を受け取るかだ。
 一方、これまでの「郷土教育運動」は、教育の現場を大きな運動の場としてきたが、これまで、教師たちは賃金労働者ではあったが、そうでない部分を持っていたからできたことだ。
 教師は、戦後、一定程度自分の労働についての決定権を持っていたので、学校現場には、教師による自治があり、対等な仲間による教師たちの相互扶助もあり得たのだ。教師たちのこれまでの郷土教育運動での実践は主としてこの自立性に依拠していた。
 しかし、残念ながら、いま学校では職員会議は決定機関ではなく、校長の諮問機関化させられ、彼我の力の差は大きく、教師たちの自治も失われつつある。教師たちも普通の労働者並みにされてしまった。
 もちろん、私は一般労働者として言っておくと、であるからといって、雇用主のためにばかり働いていなければならないということにはならない。いわばゲリラ的に、そうでない部分を持つことが可能だ。しかし、ゲリラだ。ゲリラは楽しくはあるが、疲れる。

3 権力のモラルの崩壊


 民衆はモノが買えなくなってきて、小さな店がつぶれている。いままで一生懸命やってきた町のパン屋、食堂、果物屋、さまざまな自営業者がしかたなく店をたたんでいる。あとには借金が残っているだろう。
 一生懸命やっていけば食べていけるという働くことの価値と結びついて健全な信念が通用しなくなっている。商店主たちの倒産は政治の問題だが、政治は彼らに手を差し伸べようとはしない。政治が『自己責任論』をいうのは、すなわち無策だということだ。
 企業の社長は、農産物は自由化して日本の工業製品をもっと買ってもらうのが、日本に必要なことだし、外国との友好のあり方だという。彼らも、うちに帰れば、自分の家族はBS牛や日本では使われない農薬入りの野菜や加工品を食べたくないというにちがいない。
 しかし、いったん企業の社長=代表者として発言するときは、会社になりかわって発言するのだ。欺瞞だが、この社会では、なり替わりや偽装は、消費主義の正義だし企業のもうけのもとでもあるので、民衆はそれを仕方がないと受け入れる。企業は無責任でモラルも崩壊している。

4 急激に貧困化している日本の民衆


 毎日のニュースに、無残な犯罪が出てくる。自殺者の数も増えている。無差別殺人事件や家族同士の殺し合いの事件、金目的の殺人事件。若い人たちが、自分の現実、それよりも未来に一層絶望している悲鳴が聞こえてくるようだ。
 仕事を探しても、パート、派遣、アルバイト、請負などの非正規雇用しかなく、年収200万円以下。このさきずっとそのままか、もっと悪くなる。そこをやめればもっと低収入になり、働き続けても仕事のスキルはつかない。年をとったら就職先そのものがなくなる。そうなったとき、自分はどうなるのか。生活保護は受け付けてもらえない。
 こういうとき個人はどうなるか。自分に誇りを持つことだできない。かけがえのない私と思えなくなる。心と体が弱くなる。がんばっても報われることがない場にばかりいると、心も病むが体も病んでくる。このような人は「馬鹿で何が悪い」という力がない。他者によってしか得られない、自分の誇りを支える場を持たない人間にそれは言えない。

5 消費主義から抜けよう


 しかし、一番の問題は、大衆が、これまでの、企業とその発展を支援してきた国家の価値観を内面化していることだ。消費することはすばらしい、より多くの消費できる人が偉い。企業は「いいもの」は、つぎつぎにくり出してくる。その戦略はストレートに商品だけ出すものではない。なにが美しいか、なにが正義か、なにが健康か、くりかえし説得していくる。やせていなければ健康ではない。人に迷惑をかけないことが正しい。臭いは消さなければならない。若く、無邪気に、知的に、上品に、可愛く、・・・・、企業は次のもうけにつながりそうなコンセプトを次々と繰り出してくる。
 大丈夫、本当に知的になる必要はない。そのようにみえればいい。偽装だし欺瞞だが、楽にできそうなところがみそだ。民衆が本当にかしこく判断し始めたら彼らは困る。彼らの消臭剤では、馬鹿臭さだけでは消えない。

6 等身大の文化と生活の質を創りだす


 問題なのは、何よりも文化だ。文化とは、日々の生活の質のことだ。
 良質な生活は、商品を買うことによって得られるのか。
 人間の歴史上、人の感性や情緒までも、これほど支配・管理した権力があったのだろうか。自分の生き死にも決められない。なにが美しいか、快いかも決められない。
 等身大の弱さも愚かさも意志の弱さもある生身の自分から出発したい。
 自分のことは自分で決めたい。でも人間は弱いものだし、一人ではやっていけないから、仲間といっしょに助け合ってやっていきたい。まず生き物としての自分を肯定して、始めたい。

7 アナーキズムと郷土教育


 いま、日々の生活の中でその質を問い直し、互いに助け合い、学びあってきた郷土教育全国協議会の東京都大田区の「下丸子サークル」の実践が新しい。
 労働者としての実践は貴重なものだけれど、衣食住、生活の質は問われない。毎日何を食べているか。どんな人とどのようにやさしい言葉をかけ合って暮らしているか。そういうことを根底において自治と相互扶助を模索する運動の方向にこそ、郷土教育は向わなければならない。
 アナーキズムは何よりも人と人との関係のあり方や生きるときの価値観を考え直し、それを変えようとする脱権力(権力を無意味化していく)運動だ。
 そして、いま、時代は確かに逆方向に回り始めている。
 これまでは、発展の時代、より多く、より強くより大量に、だったが、それの限界がもうはっきりと見えている。
 いまは、これまでの文化や価値観を問い直し−つまり、私たちが当たり前と感じてきたことを、そうだろうかと考えなおし、生きる意味や価値を巻きなおしていくべき時代に、否応なく入っている。
 そして、この社会にお金がたくさんなければ生きられない場しかないままならば、私たちの運動は敗れる。