福島の至宝『須賀川の羽子板展』のご案内

  • 2012/12/28(金) 10:11:35

須賀川羽子板展のご案内

期間を延長しました。


 郷土教育全国協議会の代表世話人の中村光夫さんは、教育関係にとどまらず、数多くの民俗資料の収集家でもある。
 保管するだけではなく、公開もしている。

 このたび、正月にあわせ、また、福島が話題になっていることもあり、福島県須賀川市の「須賀川羽子板」を公開展示する。
 ぜひご来場下さい。

 と き  2013年1月3日(木)〜6日(日)


好評につき、開催日程を延長します。

まずは、中村光夫まで連絡してみて

ください

   午前11時〜午後4時

 ところ  中村光夫宅(鎌倉市浄明寺3−12−30)     

       電話 0467−23−9181

      JR鎌倉駅からバスで約10分(詳しくは電話で)

ハシズム現象を考える(4)

  • 2012/12/05(水) 14:53:36

(注)ここに掲載したものは、「郷土教育全国協議会」発行の機関誌「郷土教育」(月刊)第641号に掲載したものの再録である。
なお、原則として文中の敬称は省略させていただいた。

 ハシズム現象について不定期連載で3回か書いてきて、橋下徹が攻撃の的にしている官僚支配の問題について少し触れる予定でいたが、野田佳彦によるやぶれかぶれ解散してしまったので、この際、選挙にかかわる話をさせていただくことにした。(この解散については、ジャーナリストの中には「財務省官僚の思うツボ解散」という人もいるほど、野田佳彦という人は官僚の言いなりに動いていたようである。増税をして税収を増やすことで国の官僚の仕事が減らないようにし、天下り先も確保できる、という(だけ、かどうかは別として)のが官僚たちの狙いだそうだ。)

とりあえずぶち上げてみる
 多くの人が気づいているように、橋下徹のやり方は、弁護士が法廷で仕掛ける取引のそれだ。
 訴訟では、その理屈が通ろうと通るまいと、法的に主張できることは全部主張してしまう。相手方も同じである。100%の主張が通らないことがわかっていても、相手方の手法に手抜かりがあって、少しでも多くの取り分が取れたらめっけもの、である。民事での話だが、刑事事件だって、弁護士さんは、絶対に無理であっても、依頼人が「無罪」を主張してほしいといえば、とりあえず「被告人は無罪である」と主張するのである。
 そして、主張が通らないとわかると、次にやることは、上手に妥協することである。そして相手に自分の主張が少しでも通ったかのように錯覚させるというやり方である。
 つまり、まずはでかいことをぶち上げて注目を浴びる、そして、相手の反応の強さや人々に対する説得力の強さの程度、そして世論の反発はどのくらいか、などを観察して、一挙に主張をトーンダウンさせる。これで相手は実は負けているのに何だか少し勝ったかのような錯覚をする、というやりかたである。幸いなことに、日本のマスメディアはそれでも橋下徹をテレビ画面や新聞紙面に登場させてくれる。
 つまり、橋下徹の主張には、一本筋が通っている思想がない、というのが私の理解である。
 橋下徹の、言っては取り下げ、またぶち上げてみては、そんなことを言ったかな、というような顔をする鉄面皮ぶりは、それを裏付けている。

罵詈雑言で相手を決め付ける
 もう一つの橋下流は、石原慎太郎のそれと似ていて、「バカ」とか「クソ」とかという品の悪い形容詞をつけて、攻撃相手にレッテルを貼り付けてイメージを固定化させるというやり方である。
 そのようなやり方を、まるで「ものをはっきり言う」ことだと錯覚している人が少なからずいる、ということだろう。マスメディアの記者たちも「(橋下や石原は)ものをはっきり言う」というような表現を使うことが多いことにも問題があるだろう。中身は何もない表現なのに。
 ともかく権力を取りたい、ということしかないようにも思える。はじめは、東京という権力中枢に対する大阪人のルサンチマンを刺激して、知事・市長になる。そのときは「地方から日本を変える」と言っていた。しかし、人気が出てくると、「地方から・・・」という主張は影を潜めてしまった。
 そして、これまた多くの人々が気づいているように、「脱原発」というスローガンは、この夏の大飯原発再稼動を認めるときからぐずぐずになってしまった。石原慎太郎の太陽の党との合併とともに、名前だけが一人歩きをしていた「維新八策」なるものには「脱原発」の言葉は消えてしまうことになった。
 政策、政策、と言っていたはずなのに、石原慎太郎が言うように、「ともかく合併」ということにしてしまった。石原人気と橋下人気でともかくは議席の確保を目指しているのだ。選挙が終わった後に、そのまま同じ政党でいることを続けることができるのだろうか。
 いや、そのまま分裂もしないまま続いていたら、どちらもいい加減な政治屋でしかないことになってしまうのだ、と私は思う。私の邪推だが、石原慎太郎のほうが思想的には覚悟があるのではないか、と感じている。もしかしたらその迫力に橋下は押されてしまったのではないか。言い換えれば、橋下の思想はその程度なのだ。
 ここでごく最近出版された本が面白いので、そこから少し引用させていただく。
 《政治とは、いい意味でも悪い意味でも権力闘争だ。まず権力を握らなければ、それを用いて、自分の理念を実現していくことはできない。だから、極論すれば、上昇志向や権力欲がない政治リーダーは、リーダーになる資格もないともいえる。》(太字は原文のまま)《カエサル、ナポレオン、ヒットラーを見ても彼らが「権力を握って何をするか」以上に「どのようにして権力を握るか」についてもっぱら心を砕き、そのために死に物狂いで努力したことは確かである。/そうなると、どこかの国のように、誰も隅から隅まで読んでくれないような「マニフェスト」を膨大なエネルギーを費やして作って、挙句の果てに、虫眼鏡で見なければわからないような細かい文言について「マニフェスト違反だ」と言い募られて立ち往生するのは「愚かなやり方」ということになる。権力を握っていない者は、まず既存の統治システムをリセットすべく権力を奪取するのに死力を尽くす。これは、強力な指導者を目指す人物たちのひとつのセオリーでもあった。》(『「橋下維新」は3年で終わる―民衆に「消費」される政治家たち』川上和久著/宝島新書)
 これは言いかえれば、権力を取るためには政策の一致よりはともかく一緒になることを優先するということである。まさに「太陽の党」が「日本維新の会」に入っていく姿そのものである。少しは政策の一致にこだわりを見せた橋下より石原の方がより独裁者として上手だということなのかもしれない。
 さらにこの原稿を書いている11月29日には、「維新の会」の消えてしまった原発ゼロ政策も、30年代にフェードアウトなどという意味不明の表現にまたまた変わってきたのである。相変わらずの橋下徹の悪い意味でのポピュリズムがよく表れていると思わざるを得ない。

極右・タカ派勢力を増やしてはいけない
 いずれにしろ、橋下・石原のコンビが率いる「日本維新の会」が、自民党との連立だろうが何だろうが、政権につけば、これはみごとに軍国日本の再来になるのである。原発から生み出されるプルトニウムを使って核武装をした軍隊をつくる、というのが安倍晋三であるし、石原慎太郎でもあるのだから。私に言わせれば、軍事力は、絶対的に究極の国際紛争解決の手段にはなりえないのであるが、その軍事力による他国、そして国内をも支配をしようとするとんでもない日本ができてしまう危機感を抱くのはもちろん私だけではないだろう。
 橋下徹たちが言う「第3極」なるものの「極」は、私は「極右」の「極」であると、言わざるを得ないのである。
 11月29日の報道などを見ていると、橋下徹の言動には焦りのようなものが感じられる。どう巻き返すのか。まだまだ、予断は許さない。